軸を見出す。おいしいとまずい・良し悪しの両方を知ってみる

ココロのコツ

いいことばかりだとありがたみがわからなくなる…なんて言うこともあるけれど、いいことのは多い方がいいですよね。おいしいものが多い方がいい!
でも時には、あえてのまずいものを食べてみることにも意味がある。
今回は、そういったバランスに関するお話です。

おいしいものとまずいもの、両方を食べる意味

食べ物で例えると何事も分かりやすくなるものでして。

おいしいものは素直においしいわけですが、
逆説的に、まずいもの、そこそこなものを食べた経験があると、
より「これが本当に美味しいんだ」ということがわかるようになる。それもまたひとつの考え方ですね。

野菜が苦手だったとして。
苦味があるからキライだとする。

だけど、品種によっては甘味を増していて食べやすい野菜もあります。
無農薬で育てていれば、農薬の苦味を浴びていないのでそれだけでも美味しい。
比べてみると、「具体的にどの苦みが受け付けなかったのか」を知れる。

他にもきゅうりは苦いから嫌いだけど、ニンジンはまだ甘味があるから平気といった例など。
そういう違いを比較して、初めて気がつくことができることって結構あります。

多様性のコーヒー

味わい深さの代表格といえばコーヒー。
そのままブラック、砂糖やミルクを入れたりもする。
薄いアメリカン、濃いエスプレッソもどっちも好み次第でアリ。
淹れ方も様々、豆によってもかなり味が違う。
そこをそれぞれ楽しむことができるというなかなか奥深い飲み物ですね。

ですが、飲まない人間にとってはちょっとその良さも違いもわからない。
お茶系の飲み物は最初のうちは家庭環境によっては習慣が左右されるかと思います。
このブログを書いている人は、コーヒーを飲む習慣がなかったので、そもそもこの苦いものをなんで飲むのかと思っていたわけですね。
眠気覚ましにはなるのかもしれないけど、何故紅茶よりコーヒーの方が主流なんだろうぐらいに思っていました。

今は、相変わらず習慣的に飲みはしませんが、一口試しに飲んでみるのを繰り返して、だいたい違いが分かるようになってきました。
とりあえず、缶コーヒーは砂糖有無に問わずものすごく口に合わないですね…。

わからないとどうしようもない

まず分からないとどうしようもないというのが、コーヒーの件で感じたところです。

疑問を抱く以前に、「何がわからないかわからない」という状態ですね。
疑問すら抱けていないという段階。

会社などでコーヒーを出す手伝いをするような機会があったとして。
コーヒー飲まない人間にとっては、濃さがどうだったと言われても何もわからないんですよね…。
実際に飲んでみても、それが薄いと判断していいのかの基準が舌にない。
知らないとそういうこともあります。

当たり前のようですが、このあたりは人によってかなり差があることだと思います。
魚嫌いのご家庭で育っていたら、水族館で変わった発言をしたりするかもしれませんしね。

でも極端だとバランスを崩す

では、時にはあえてやりたくないことをやってみるのも良いことなのか?
対人は嫌だ、外で働きたくないと思っている人が、在宅業務じゃなくてあえて外に出て接客業をして多人数とめちゃくちゃ会うぞ!みたいなこと。

荒療治っぽい気もしますし、結果としていい刺激になる場合ももちろんある。
ただ、極端なことをするとバランスは崩れて、結局体調に影響が出てきたりはすることもある。

それよりも、その「やりたくない」ということに対しての、自分の本質的な感覚、その理由を知るのがいいのかもしれません。

やりたくないと思っていてもそれには種類があるはずです。

・本当は取り組むべきだけど、今はやりたくない
・今はその時ではない
・恐ろしいからやりたくない
・本当にやりたくない
・はっきり言って大嫌いなので
・やった方がいいのかなと思うのは自分の意見じゃなくて外側からの情報のような気がしている

いろいろと理由や意見があると思いますし、やりたくないにも話が変わってきます。
そして中には自分自身を欺いた理由も出てくることでしょう。

結局、答えは自分の感覚がその時の本人にとって正解なのだと思います。誰がなんと言おうとも。

例えば、自分の感覚では本当は必要だと感じている、でもあえて今はやりたくないことであれば、自分にとって良い経験になりそうですね。

逆に、自分の本音から出ていないのにやってしまったことは、どんなに慈善的な行動でも長く引きずる後悔になり得ます。
なんでこんなことに時間を使ってしまったんだろうという虚無感につながることもある。

案外、好き嫌いは自分自身ではない

そもそも好き嫌いというもの自体が自分自身のものではない。
反応として出てくるものです。
プロフィールに好き嫌いを書いたりするので、それがもう自分というもののと同一視されがちなのですが。

アレルギーと関係する食べ物の好き嫌い
今回はアレルギーと食べ物の好き嫌い、そして嫌いになるにはそれなりに理にかなった身体の理由があるのではというお話。食べ物アレルギーとはざっくりと説明する食べ物アレルギーとは、特定の食べ物を摂取すると免疫が過剰に働いてしまい、「もうこれ以上身体...

例えばトマトを食べた時に美味しい・まずいと思う。
これは自分の意志で決めていることでしょうか?と。

種が酸っぱくてちょっと体に合わないって感じるのは反応です。
自分の意思で好き嫌いは決めてないわけですね。
後から理由はいっぱいつけられるし、説明もできるけれど。

なので、好き嫌いやいいことばかりに固執している自分に気づいたら。
自分にとってのいいことを選んだことで世界が逆に狭まっているような気がしたら、所詮反応なのだからと一端フラットになってみる。
時には違う反応を見てみるというぐらいのことをしてみるのも、ひとつのチャレンジになるかもしれません。

おわりに

人ってなかなか強いもので、自分にとって必要ならばと、不利だったり、本当は望まないような気がする試練にもあえて飛び込んでいくことがある。
その先にある何か大事なものに向かっていく。

それが何であるか、どう大事なのかは、本当にその人それぞれの違うものになっていて。
直感的に気づくことができるのは本人だけ。自分の感覚をどうか大切に。
自分の感覚がわからないという時の状態の人もいるかと思いますが、そういう方は本当はあったそれを思い出すために、不必要なノイズを減らしたり、自分を整えるところからしてみていただけたらいいのかなと思います。

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