食べものの好き嫌いと「お残しは許しまへんで」へのレジスタンス

雑記

「お残しは許しまへんで」を許さんと思っていた

「お残しは許しまへんで」
率直に申し上げて、市民権を得ているセリフの中でかなり苦手な部類の言葉です。
これは言われたら殴り返そうと密かに思っていた地雷ワードでもあります。物騒。
思っていた、ということで実際に周りにそんなことを言ってくる輩はいないので、この世は平和なものです。
(どうもこの世には「〇〇してきたら許さんぞ」とファイティングポーズしておくと、そうはならない法則もあるのかもしれないようですが、それはまた別の話ですね)

元ネタは忍たま乱太郎の食堂のおばちゃんの有名なセリフですね。

アレルギーは仕方ないけど好き嫌いはダメという風潮

どうにも「アレルギーは仕方ないけど、好き嫌いはよくないよね」
という風潮があるのではないかなと思います。
これはアレルギーの表示が一般的になっている現在の状態であってもです。

やっぱり、好き嫌いがない方が良いと思われている。
確かに不便じゃないかもしれない。
でも、本人とて「好き嫌いを自分の意思で決めてはいない」

印象による食わず嫌いはあるけれど、
見た目からして状態が良くなさそうという判断もある。
単純な見た目だけじゃなくて、自分に合わないものを感覚が判断した可能性だってある。

また、食べてみて嫌いだった場合も「反応」になります。
自分の意思で自発的に決めてるわけではないわけですね。
トマトが酸っぱいのが苦手だったとして、
あらかじめ酸っぱいのは嫌いだから、という決めた意思があるわけではない。

反応としての好き嫌いを決める基準が、そもそもどこから来てるのかという話ですが。
体質や今の自分自身の体の状態だったりすると思うのですね。
それって言ってしまえば、アレルギーほどじゃないにしろ健康状態による影響なわけです。
だからある意味、好き嫌いに従うことは健康への配慮の一種なんじゃないかと思います。

それを踏まえると、「好き嫌いは良くないから」といって我慢して食べることは
実際に我慢して食べたという気分の悪さ以外にも、本当に体の体質に合っていない場合だってあるわけです。
嫌いなものを無理して食べると害になることもある。

昔は食料が少なかった

時代によって、かなり食文化も違っています。
忍たま乱太郎の作品の中での細かい時代は正確に把握していないのですが、
少なくとも忍者がいるということで、どちらかと言うと穀物や粗食だった頃なのかなと思います。

当時だったら、貴重な食料を残すのは許さんぞっていうのは納得できる。
冒頭で言われたくない言葉としているけどそこは理解しております。
ただ、現在の豊富なグルメがある時代としては、必ずしもそのままの意味ではない部分もある。

たくさん食べるのがいいことだと思われている

忍者がいた頃はおそらく米や野菜がメインだった時代だったと思うのですが、
忍者が表向き姿を消した現代では、一気に肉や魚、お菓子など、いろんなもの食べられるようになりました。
それ自体はすごく楽しくて美味しくて、いいことだと思います。
それに付随して、たくさん食べるのがいいことだと思われている風潮があるんじゃないかとも感じます。

「たくさん食べるのは元気な証拠」
「とりあえず食欲があれば大丈夫」
「食べないと元気になれないよ」
などと言われるのですよね。

少食は燃費がいい

少食とは、言ってしまえば燃費がいい人でもあります。
少ない量でしっかり動けるのだったら、それに越したことはない。
消費する命が少なくていい。

とはいえ、少食も大食に対して、
どちらが良い・悪いというのはこちらの意見としては特にないです。
体質に合わせておいしく健やかであればいい。

古いことわざが価値観の縛りになっていることもある

時代は変わったとしても、ことわざは残ります。
日本の古いことわざは、我慢や清貧を美徳とするような言葉が多いわけです。
今に通じるところもあるけれど、それは昔の価値観の言葉だった面もある。

今でもことわざが古き良き格言だったからとして、
単純に何も考えずに鵜呑みにしてしまった場合、そのまま我慢になることがある。
そして、我慢した結果に現実面での実害が出てくることもある。

だから、その格言を自分の価値観として採用するのか、受け入れて食べていいものなのかはちゃんと考えた方がいいのかもしれない。

キレイに残せばいい

現実問題、「お残しは許しまへんで」をどのように対処するかという話です。
素直に、事前にそんなにたくさん食べられないからと減らしておけばいいと思います。
綺麗に残すのは悪いことではなく、綺麗な食べ方だと思います。

仮に誰かとの外食などえ、なにかしら言っていくような人がいたとしたら、
ちょっとあんまり関わらない方がいい相手だと判断ができる機会でさえあります。

頭ごなしに言ってくる人自体が減ってきている。
ネットの普及により、ご家庭やご近所の範囲でしか会ったことのない相手だけじゃない、さまざまな考え方を知る機会がある時代です。
ある程度寛容な考え方が受け入れられる時代になっているのかなと思います。

言葉そのものではなく、圧力への対抗

「許しまへんで」という強い言葉も耳には残ってるけど、食堂のおばちゃんには自分の命をつなぐ仕事の大事さも愛もあったと思います。多分ね!

食べものを大事にする、もったいない精神があるのは前提です。その考え自体は命を尊ぶ価値観。
そこを踏まえず、目の前の食事を残していた現象に対して、何も考えずに軽い気持ちで言ってきたら冒頭のように以下略ということです。

価値観は時に見えない圧力や縛りになる。
情報の広がりと多様性と共に、言葉や空気感の暴力が暴力だったと明らかになってきた。
今は過ごしやすいように再編されつつある時なのだと感じています。

もう「とりあえずビール」じゃなくなった時代に、乾杯!

言ってしまえば、今はもうとりあえずビールの時代じゃないわけです。
どこかにはあるのかもしれないですけど、全員ビールが好きだからで選ぶ。そこに我慢している人はいない。別のものを頼みたい人は頼んだっていい。

食べものを各々の理由で残す場合にも、そこに後ろめたい思いをしなくていい。
そんな風に、許容の元で、相手の違いを理解して接していく空間が増えていくと素敵ですね。

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