いいことのはずなのに?
勉強家な人であるほど「この考え方は素晴らしい」「こういう生き方はいいな」と多くの知識を吸収していく。
その一方で、それら「いいこと」のはずの積み上げてきた価値観が邪魔になる時も実はある。
より良い価値観を知って、実践しようとしているのに、なぜかうまくいかない。
いいものはいいものだけれど、できるならその光で影を作らないように。今回はそんなお話です。
ジャッジというもの
良し悪し・正義と悪
そもそもジャッジが何かという話。
価値観によって生じるものであり、
「これはいい」「これはかっこわるい」「年収〇〇以下はやばい」
といった判断や決めつけ。
ジャッジは好き嫌いとはまた別物です。
これは本当に人によって、びっくりするほどいろいろな価値観というものがあります。
善悪以外でも、何かしらの芸術方面で「この絵は描写が繊細だからとても良い」といった、そういう美しさにまつわる判断という面もあります。
ただ、行き過ぎると、自分も他人もしんどくなるという面がある。
そんなジャッジする思考は増えすぎると怖い面があります。
反発のエネルギーは強い
何かをいいと思うことで、逆に良くないと思ったものが生まれる。
それを回避しようとしたり、よくないと責めたりする。
そういったときの反発の力は非常に強いです。
人間もまたバランスというもので成り立ってるんだなぁということを感じて、ここが非常に面白いところなのですが。
例えばダイエットの例。
「ダイエット中だから甘いものはやめよう」
「甘いものは体に良くない」
「太っちゃうからやめよう」
そう思うのは自然かなと思います。
しかし、「良くない」と分離され、抑圧されたからこそ、離れたものはひとつになろうとします。
「弾かないでー戻してよー。一緒にしてよ!」
…といった具合に、逆に食べたくなる。
そういうややこしい仕組みがあるのです。
これが、ダイエットがなかなか成功しないパターンのひとつなのかもしれませんね。
自発的に敵を作っている
「これがいい!」というものがあると、言い方にもよりますがそれ以外のものを敵に回してしまうこともある。
「絶対」なんて言葉を使ってしまっているととちょっと危ういかもしれない。
頑固さが高い。
誰かに喧嘩を売るつもりではなくても、
自分の価値観で、「これが良い」「これが悪い」と外のものを判断してみていくことで、
自分もまた相手にも同じように見られてしまうのではないか?という恐れを抱くことがある。
そういう点でジャッジは扱いによっては、世界、すなわち自分の周りに敵が増えていってしまう。そういう欠点があります。
美学はあっていい、他の見方もあっていい
ジャッジは全部が全部悪いわけではないわけです。
これが美しいと思うからこその鋭い意見のこともある。
特にデザインは、根拠をもって、このように視線を誘導して美しく見えるから、こうを配置する…といった、意図のある美しさの考えです。
美しいものを作り上げていく上で、玉石混交にたくさん見て目を養っていくことになる。それは美学にまつわること。
でも時にそれを相手をこき下ろしたり、自分自身をしたりするのに使っちゃうと、とても辛いことになってしまいます。
好き嫌いは好みの問題
好き嫌いと ジャッジというものを改めて考えた時に若干好き嫌いとの区別ってイマイチつきにくかったりするかもしれません
もう好き嫌いに関しては好みの問題です。
「トマトのリコピンが体に良い栄養だから、絶対食べるべきだ」っていうのはジャッジですが、
「トマトが美味しい。特にリゾットにして食べると最高だね」っていうのはもう好き嫌い。
好き嫌いだと喧嘩になりにくいかもしれません。
だって好き嫌いだからどうしようもない。
ジャッジだと、「これこそがいいんだ」「これが正しいんだ」となるからこそ、他の正しくないものが悪…つまり別の正義にになってしまうことで喧嘩になりがちです。
おわりに:何よりも自分が苦しくないように
どの程度、価値観やジャッジを手放していくか。
これはもう自分が苦しくないように、生きやすくなるように選んでいくのだと思います。
もし、人から責められるような気がして、生きにくいと思っているのであれば、それは自分が持っている価値観を見直していく時かもしれませんね。