創造・維持・破壊に必要なもの
物事のプロセス、創造・維持・破壊。
かつて瞑想の教室で学んだことの一つですが、
これらがそれぞれ必要だとそういう話を聴きまして。
新たな創造のするために正しい知性が必要なのは分かる。
終わらせるために破壊するにもパワーがいるのも分かる。
…そして維持をするために愛が必要だというのに、当時はちょっとピンとこなかった。
だからこそ印象に残っていたわけですが、今回はそこを改めて考えてみた話です。
維持するには愛がいる
愛がなければ自然と質は落ちていく
仕事を例にして、新人やアルバイトの人にその作業を教えたとして。
内容は日々の掃除でも書類でも下ごしらえでも何でもいいのです。
その作業をやってもらうにあたって、教え方が十分でなかったり、伝わらなかったり、または本人の仕事に対する思い入れ次第では日に日に質は落ちていくような気はします。
それでなくとも人は慣れていく生き物なので、最初こそ神経を使っていたことがだんだん意識せずにできるようになるからこそ、意識しないうちにこなして抜けが出てくることはありそうです。
関心もまた愛の一種
仕事のクオリティを上げる、お客様の目線に立つといった話になれば、なおさらそのためには関心がなければできないことです。
逆に関心があれば、それだけである意味才能がある。
その仕事や趣味に対して向いているというのはあながち間違いでもない。
興味があって、もっとどうしたらいいかと取り組めるからこそ、気がつくことができる。
気がつけばそこに向かって行動ができる。
それはつまり愛の一種なのではないかということです。
愛がなくなった時は、手放していく時期が来たサイン
逆に考えて、愛がなくなってしまったと感じる時。
慣れてしまって、新しく何か目新しく習得することもなく、どうも以前ほどの関心が持てなくなってきて、もう学ぶことが無くなってきた…とさえ言える時。
それはもうかつてほど愛せていないと自分を責めるより、もう手放していく時期が来たんだというサインなのではないでしょうか。
自然の摂理は、種を植え、芽吹いて、花が咲いて、やがて枯れて、また種が生まれる。春夏秋冬はぐるぐる巡る。
燃えるような熱意がある時もあれば、やがて終わりの季節を迎える時も来る。
それはそれでひとつのサイクルなのだと、罪悪感や過剰な悲しみとかを抱かずに次のステップに進めたらいいと思います。
維持することって当たり前と思いがち
「維持」という行為と言葉自体が、どことなく当たり前であるような印象があるので、ついつい愛のことを忘れがちになってしまう気がしました。
日々の家事も生活も、思い返せばそこに愛がなければ穏やかな時間が保てるほどのクオリティになっていないのかもしれない。そういう風に改めて感じることもできるはず。
時には当たり前の中にある、愛や気遣い、真心を感じるひとつのきっかけになるかもしれません。