何かを恐れて物事がうまくいってなかったり、思考が固まってしまったり、チャレンジできなかったり、取りかかることができなくなることがある。
人目を気にしてしまうと、そうやって自分を妨害してしまうことは本当に多い。
恐れなく、何でもできたら、それに越したことはないけれど、湧いてしまうものは仕方がないですね。
でも、あまりにも生きづらくなってしまうのはちょっと悲しい。
今回は人目と恐れについてのお話です。
恐れの理由
よくよく考えると、意外と理由の根っこは同じようなところから来ているのかもしれない。
どうして怖いのだろう? とノートに書いて掘り下げてみるなどすれば、結局「他人の目を気にしてしまっている」ところに行きつく事が多いです。
なぜこんなにも、私たちは人目というものを気にしてしまうのでしょうね。
やってみたいけど手を出せない理由は人目
「これをやると変に思われるから…」そのように、人目を気にしてしまっている。
あるいは、マナーや一般的に考えて、いけないと思っている場合もあるかもしれません。
守らなければならないルールやマナーは本当に同調圧力ではないと言えるでしょうか。
何も考えずに右倣えで従っているだけではないでしょうか。
例えば。
どうにも駅のエスカレーターでは片側を開けるのが一般的ですが、
本来なら片側だけ乗って一列になれば、行列ができて逆に混みます。
(現在のソーシャルディスタンスのことは置いておいて)
話をきいたところ、駅員としては困っているそうですね。
これが特定のサブカルの祭典、コミックマーケットになると…。
各々が勝手にお行儀悪いことをすれば開催が危ぶまれる場。
そしてスタッフの(面白い)誘導の声かけにより、エスカレーターでは2列に並ぶ姿が見られます。
時にマナーやルールは、場所や状況によって変わるものでもあります。
本当は大したことのない、「みんながそうしているから」という同調圧力やローカルルールだったりする場合もある。
案外破ったところで相手も気にしてなかったりするかもしれません。
その場合は、人目を気にして自分が本当にやりたい方向性の進めなかったり、窮屈さを感じていじけてしまったりするのはもったいないですね。
その上で、配慮を選んでいい
ただ人目を気にしたとしても、もちろんその上で配慮を選んだっていいのです。
覚悟をもって破っても、配慮をもって守っても、どちらでも良いと思います。
自分の趣味に合わないけど、これぐらいなら許容できるという位置を探ってもいい。
その上で、お互いが快適に過ごしたいから。
もちろん、その後の責任は自分で取らないといけない。
自分で選び、自分で結果を引き受ける。
どのようにしていくかを自分で決める。
その判断基準に「人目」が気にならなくなったなら、怖いものは大幅に減っているのではないかと思います。
おわりに
「周りがそうなのだ」と感じている、その人目という目に見えないものを感じているのは、あくまで自分の目線の話であって、案外と人はそのように思っていないのかもしれない。
人は自分以外の人のことは興味がないとはよく言われますが、
人目を気にしすぎて苦しいときは、一端「人目を一切気にしなくていいならどうする?」と想像してみるのもいいですね。