今時は少ないのかもしれないけれど、ゲームなんて暴力的な遊びをして!といった具合に親御さんに窘められたことがある人いるかもしれません。
実際、中には暴力表現があったりと、なかなかインモラルでアウトローなテイストのゲームもあったりします。
でも、そういうのはなんだか妙に楽しい。それはそれで何かしらの効能がある。
あえて悪徳を遊ぶことの意味について、ちょっと改めて考えてみる。今回はそんなお話です。
ゲームで倫理観のない遊びをするのが妙に楽しい
暴力的だと拒否する人もいるけど、基本的には現実との区別がちゃんとあれば問題ないと思います。
「良くない」と判断してしまうのは、そこに善悪の物差し、ジャッジがあるからです。
「守るべきルール」や「こうすべきという倫理観」がある。
もちろん、それは他者を傷つけないためであったり、
自分の良心が咎め、後ろ暗くなるようなことでもある。
いい具合に機能すれば、心地よく自分も相手も過ごすためものです。
よくないものだと忌避するのは倫理観という名のジャッジから
問題は、守ろうとして抑圧してしまっているという点かもしれません。
「いい人になろう」とルールを守ろうとするからこそ、不良な相手に対して「なんだコイツ」と思う。
「そういう人もいるよね~」と思えるのならよし。
自分が我慢して守っているのに相手は好き勝手しているように見える。
子供嫌いなのは、実は子供が自由奔放なのが羨ましいから…といった動機があったりするかもしれない。
抑圧の解放としての遊び
そんな抑圧を解放する意味で、あえてルールに違反しない現実とは違うところで悪役プレイをして遊ぶ。そこに心地よさを覚えていく。
それを現実に引きずって持って帰っちゃうとまずいわけですが、
本当だったらできないことを、あえてやってしまうのはワクワクします。
どういう感覚になるかを言葉にするならば、爽快感や開放感が近いのではないかなと思うわけですね。
優等生がこっそりタバコを吸ってるケースではないですが、
それだけ日常的には悪いことをするのを禁じている自分がいるのかもしれません。
倫理的に悪徳であろうと、疑似的に実際にやってみて、解放してすっきりするという経験を味わうことには意義があるのでしょう。
おわりに:用法用量を守って楽しく嗜もう
ここでもやはり百聞は一見にしかず。
時にはすっきりサッパリ、トリガーハッピーな銃の連射でも、アウトローでも、殺人鬼ロールプレイでも。いろんな悪役が楽しめる。
現実には引きずりすぎず、割り切って楽しむ。用法容量を守って~という具合に遊んじゃう日もいいものです。