今回は断捨離・片づけにまつわる、自分が実際に片付けをしていて気づいたことや思ったことのお話です。
失敗を受け入れること
片づけをしていくことは、過去の自分と向き合うことでもあります。
心理的ハードルを高く感じさせていることの一つに「失敗を受け入れること」があるのだろうなと最近気がつきました。
そういう、ちょっといまいちな選択だったものたち。
自分にとって心地いい選択にならなかったり、物をしっかり活かすことができなかったということになる。
過去にした自分を軽んじてしまった選択を認めること
何事にも失敗はないと言えなくもないし、購入した段階で満足したと解釈できます。
のであれば、それはそれで今取っておく必要がないわけです。
自分自身にとって、しっくりこないものを買ってしまったこと。
選んでしまったこと。
それは言ってしまえば、過去に自分自身を軽んじてしまったことにも繋がる。
その失敗を受け入れて、認めて、許すこと。
そして手放し行くことで、今度はもっと自分を大事にしていくことを選んでいく。
こうやって考えてみると、手放すのも結構勇気のいることなのではないかと思います。
自分で選んでないものを残していたくない
これは私の場合になりますが、断捨離を続けていく上での判断基準。
私は人からもらったものをあまり躊躇なく捨てることができるタイプです。
貰い物だから申し訳ないといった心情は関係ない。
むしろ、逆に人からもらったものの方が好みではない場合もある。
(特に、気心や趣味を知っている友人ではない場合ですね。最初から断る時もあります)
この他にも、古くからある親世代が選んだであろう食器の数々。
それらを見て手放していく時に、自分で選んでないものを自分が使い続けることに耐えられないのだなと気がつきました。
まったく気にならない方もいると思いますので、ここは人それぞれですね。
デザインが気に入らなかったり、少しの使いづらさがあったり、少し心地よくないものをそこにあったからといって使い続ける。
もったいないから、まだ使えるからというのもそれはそう。
でも自分で選んだ素敵なものを大事に使えばもっといい。
その選択が十分可能である。
できるのにしないのなら、それはもう自分を大事にしていることにはならない。
無意識のした覚えのない容認が物としてたくさん残っている
そう考えれば、一人暮らしの新居で身の回りの物を全部自分で選んだというわけではない場合。
実家など、元々あるものを使って生活している場合には、どれほどたくさん自分の意思で選んで(=同意していないもの)を使い続けているのだろうと再確認しました。
同居人がいる環境で、他人のものや共用のものに対しては、自分一人の一存で何でもポイポイするわけにはいきません。
そこはご相談して、折り合いをつけていくべきところです。
自分の意思の入っていない「なんとなくの部分」さえも浮き彫りになっていく。
まだまだ片付けをしていく中で、改めて認識できる部分が増えていくのが面白いところです。